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わが日本教育再興連盟の代表理事である鈴木寛先生に、学生事務局からインタビューをさせて頂きました。鈴木先生は、現在、参議院議員でいらっしゃいますが、多忙な日程の中から、本連盟と学生のために時間を割いていただきました。鈴木先生の教育にかける想い、本連盟立ち上げの経緯など、たいへん興味深いお話をうかがうことができました。

インタビュアー・編集松本大地(東京大学2年)
インタビュアー江頭里奈(お茶の水女子大2年)
インタビュアー齊藤 あずみ(筑波大学4年)

どのような経緯で教育に関心をお持ちになったのですか?

中学、高校時代から社会問題に関心がありましたので、世の中を良くしてゆくためにはどうしたらいいのか友達と議論をしたりしていました。その中で、やはり、人づくり、つまり教育が重要だろうという意識を持つようになりました。ですから、本格的に教育について考え始めたのは16歳くらいからです。ですが、教育への関心の萌芽は小学校時代にあると思います。実は、小学校5,6年生のときに担任の先生からいじめを受けておりまして、なかなか大変な生活をおくっていました。それを最後は校長先生が助けて下さいました。

担任の先生からいじめを受けた経験と、それを校長先生が助けて下さった経験から何か思うところがあったのかもしれません。

鈴木先生はこれまで、私たちのような若者の育成活動を10年以上も続けていらっしゃいますが、そのきっかけは何だったのですか?

93年から95年までの山口県での暮らしが大きく影響しています。その2年間で長州の志士たちの足跡を中心に様々な所に足を伸ばして歩き回りました。特に松下村塾にはとても感動し、合計20回近くお参りしました。わずか八畳二間の空間から出発し、3年足らずの期間で二十名弱の人達が日本を変えてしまったということが非常に衝撃的でした。また、95年の阪神淡路大震災後には、たくさんの人達がつながり助け合い支え合ってゆく様子を目にしました。これらのことから、世の中をつくるっていうのは、政府とか法律とかではなく、非常に熱い、情熱、志を持っている人たちが一人でも二人でも出てくることの方が大事だということを痛感しました。それで、95年から東京で本格的に人づくりを始めました。

鈴木先生は若者の育成活動の他にもコミュニティ・スクールの開設運動をなさっているそうですが、コミュニティ・スクールとはどういうものですか?

コミュニティ・スクールとはその地域ごとの必要に応じて、地域の人達や保護者が学校運営に参加できる公立学校のことです。コミュニティ・スクールの最も大切なポイントは「地域ぐるみで子どもを育てる学びのコミュニティをつくる」ことです。関係当事者である地域の人々みんなが参加し、熟議して解決策を見出し、役割分担をして互いに協力し合いながら問題解決を図るコミュニティ・ソリューションという考え方を教育現場に適用したものです。コミュニティ・ソリューションという考え方は、金子郁容先生が松岡正剛先生と僕も共同執筆させていただいている『ボランタリー経済の誕生』(実業之日本社、1997)という本の中で提唱された考え方です。

コミュニティ・スクール開設運動ですが、いつ頃から取り組んでいらっしゃるのですか?

僕が通産省で情報教育の普及に取り組んでいた頃に、学校現場の崩壊ぶりが予想以上に深刻であることを知り、その後金子郁容先生と一緒に1996年頃から構想を具体化し始めました。慶応義塾大学助教授時代に金子先生と構想を煮詰め、電子会議室でも多くのみなさんと議論を深め、99年には、金子郁容先生が主査を務める教育改革国民会議に提案し、17の提言のなかの一つに選ばれました。同時に、私たちは、岩波書店から「コミュニティ・スクール構想」という本も出版いたしました。2001年に、私が参議院議員に当選後、文部科学省に働きかけて、2002年には文部科学省から尾道市立土堂小学校など7地域9校がモデル校に指定されました。2004年にはコミュニティ・スクール法が成立し、2005年に施行されて足立区立五反野小学校が全国初の指定を受けました。現在、全国で150くらいのコミュニティ・スクールが出来ていますが、これを1500、10000と増やしていきたいと考えています。通常の学校からいきなりコミュニティ・スクールに移行することは難しい場合もあるので、土曜学校→放課後学校→コミュニティ・スクールという3段階を考えています。土曜学校については、2003年の4月に僕がやっている鈴木寛ゼミの学生達と保護者の皆さんと一緒に「六本木土曜学校 mana VIVA」を開校し、その翌年には文科省が土曜学校を制度化・予算化しました。土曜学校は8300校できました。放課後学校は2007年度から200億円の予算が確保され、これから拡大してゆくところです。土曜学校、放課後学校が普及すれば、そのなかからコミュニティ・スクールに移行する学校もたくさん出てくると思います。

もう10年以上も前から取り組んでいらっしゃるのですね。

着々、一歩一歩、遅々として進んでいるという感じですね。ものすごく急速な展開ではないけど、半歩半歩ここまで進んできたという感じです。私が国会で予算や制度を担当し、金子先生が教育改革国民会議の委員として、また文科省の様々な審議会の委員として色々な意見を言ってゆく。そして小学校のモデルとしては陰山先生が校長先生をやり、藤原和博さんが中学校の校長をやりという風に、まさに現場とそれから政府と国会が連動することによって少しずつ地道にねばり強く進めてきました。

90年代半ばには学校を地域に開かなければならないような状況があったのでしょうか?

コミュニティ・スクールを構想し始めた96年頃というのは本当に公立学校は閉鎖空間でした。閉鎖空間だから、どんな教育がおこなわれているのか誰も分からないような状況がありました。保護者も、もちろん地域の人も、場合によれば校長先生すら十分に把握していない。そこで精査まちまちな教育がおこなわれていました。ある意味では担任の先生に負担がのしかかっている面がありました。不登校や引きこもりなど色々な問題が起こっていました。そこで、学校を地域とか保護者にもっと開くことによって創意工夫が色々な人の知恵によってなされるようになり、そしてそれが熟成されて良い活動の実践へと結びついてゆくことを目指しました。

公立学校の閉鎖性は改善されたと思いますか?

実は96年の時点から比べると、学校現場は相当良くなった現場も多いと思うんですね。もちろん、手をこまねいていた結果どんどん悪化している現場もあります。だから、そういう意味では、95年から今に至るまで、良い所と悪い所の差が広がったというのが正しい現状分析だと思います。全体として95年からどんどん悪くなっているというわけではありません。

鈴木先生は2005年に日本教育再興連盟の前身となる活動を開始されたわけですが、その理由を教えて下さい。

僕のソーシャルプロデュースの方法論として、スーパーパーツという1つのモデルを丁寧につくりそれを普及させていくという考え方があります。現段階で杉並区立和田中学校、三鷹市立第四小学校、足立区立五反野小学校、京都市立御所南小学校のような確固たる成功モデルがいくつも出てきています。これからは第2ステージとしてそれらを「広める」という段階です。

また、教育に関する前向きな事例や情報を発掘してそれを広めていきたいという気持ちがあります。現在はマスメディアの報道によって教育現場が混乱している面があります。教育への期待値が高い分、例えば教育の現状をプラス80点とは言わずにマイナス20点と表現する傾向がややあります。マイナス20点が強調されることで世の中の人は「教育は大変だ」と思ってしまいます。そこで、プラス80点の部分を伝達することで情報伝達をフェアなものにしていかなければなりません。

頑張っている地域や良い教育実践を発掘し、その方法論をみんなで分かち合う、マスメディアではない新しいメディアをつくってゆくために日本教育再興連盟を設立しました。良い教育改革実践を発掘して、それをとにかく応援をしようという気持ちを持ったヒューマンネットワークを全国47都道府県につくって、そして、その人達のネットワークが良い事例を探し、それを全国に発信する。そういうもののハブになっていけたらいいなと考えています。

当連盟で活動する学生たちに望むことは何ですか?

日本教育再興連盟の特徴は現場からの盛り上がり、徹底したボトムアップ型組織であることです。学生のみなさんは上のジェネレーションと下のジェネレーションをうまく結びつける役割を担います。上からの改革という方法論を変えない限り教育改革は絶対に成功しません。教育再興連盟の学生の方々がどこまで頑張れるかが日本教育再興連盟の活動の成否を握っているのと同時に、日本教育再興連盟の運動論がうまくいくかいかないかというのが日本教育改革の命運を握っています。様々な人達と結びつき、そして協力し合いながら「良い」実践を発掘、普及させ、日本の教育をより良いものにしていきましょう。